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奇跡の1マイル 国際通りを歩く

那覇市の中心を東西に貫く約1.6km。

沖縄屈指の観光地として知られ、軌跡の1マイルとも呼ばれる「国際通り」は、沖縄へ行った者は必ずと行っても良いほど訪れる場所の一つとして知られるだけでなく、戦後の沖縄史そのものを象徴する通りだと思ってる。

焼け跡から始まり、アメリカ文化とともに育ち、いまも変わり続けている、そんな国際通りの話。

国際通りのはじまりは瓦礫の上の露店から

1945年、先の大戦の終結。少し歴史を知る者なら、那覇の町は焦土と化したことを知っているハズだ。

そんな中で人々は、トタンを拾い、木箱を並べ、焼け跡に小さな次々と露店が生まれたそうだ。野菜に肴に肉、芋、薬、古着、砂糖。なんでも売られてた。それがやがて通りになり、人が集まり、市が立ち、町ができた。

名前も舗装も後からついた。国際通りの原点は、生きる力の通りである。

「国際通り」という名前の由来

戦後間もなく、那覇の町で、人が最初に集まったのは映画館と市場だった。

この通りに建てられた「アーニーパイル国際劇場」、アメリカ映画を上映するその劇場は、今行きたい憧れの場所の一つだったと言う。そこから通り全体が 国際通り と呼ばれるようになった。戦後の慰安と娯楽の核となり、観客は連日満員、周囲に飲食と露店が連なり、夜の明かりが道の輪郭を作った。

皮肉なことに、「国際」という言葉は、アメリカに飲み込まれた時代の呼び名でもある。アメリカ文化と取引を覚え、ドルを使い、英語を看板に並べながら、沖縄はかつての琉球王国がそうだった様に、異国の文化をも取り入れる商才を発揮していったわけだ。

国際通りは、敗戦から立ち上がるための最前線だったと言う者が居るが、確かにそうだと思う。

戦後のにぎわい:商売と芸能が混じる場所

並行して小屋掛けの劇場が再開・新設される。

たとえば、那覇劇場は1949年に露天劇場として始まり、戦後旗揚げの各劇団が上演を重ねた(のちに閉館)。映画偏重の時代でも、演劇・演芸は那覇の娯楽として根付いていた。

1950年代末の統計では、常設映画館92館/演劇場12館(米軍専用館19を別に数える)という規模感。娯楽の重心が「映像+舞台」にあったことが数字で見える。

国際通り界隈の夜は、映画館の呼び込み、紙芝居や大道芸、そして民謡・演芸の実演が重なる混交空間だった。民謡はこの時期に戦後第1次の隆盛へ向かい、演者と観客が近い距離で呼応するライブ性が強まる。故登川誠仁や故嘉手苅林昌といった民謡会のスターもこの時代に大活躍している。

当時の国際通りの記録映像・写真でも、アーニー・パイル国際劇場を起点に人流と屋台が面で広がる様子が確認できる。街のにぎわいは観光の見世物ではなく、生活の延長としての娯楽だった。

観光立県・沖縄のショーウィンドウへ

1972年の本土復帰。沖縄が「観光立県」を掲げる時代に入る。

我々含めた一般の観光客はもちろん、修学旅行生や外国人観光客の最初の接点、国際通りの入口の交差点には、沖縄の象徴の一つ、大きなシーサーが迎えてくれる。

国際通りの表通りはおみやげのショールームになった。沖縄そばにステーキやタコライスと言ったらしい飲食店が立ち並び、紅型(びんがた)、やちむん、琉球ガラス、泡盛など、伝統文化が観光商品として再構築されていった。

コンビニ一つ覗いても、内地とは品揃えが違う。沖縄文化は、国際通りで見せる技術を学んでいった。

そして、近年の国際通りは、再開発の波に包まれている。老舗の喫茶店や商店は姿を消し、ガラス張りのホテルが建つ。内地からの観光客よりも、外国人の姿も多くなった。

観光客の動線は整い、Wi-Fiやキャッシュレスも完備された。

牧志市場


一方で、路地裏の小さなバーや定食屋では、今もゆったりとした沖縄民謡が聞こえたり、おばーが営む食堂や雑貨店も健在だ。

企業と個人、効率と記憶、そのせめぎ合いが今の国際通りの姿である。

焼け跡から始まり、映画館とともに生まれ、
観光で栄え、再開発で変わる――。
国際通りは、沖縄の70年をそのまま映してきた。

訪れる度に感じるのは、ここには、戦後を生き抜いた人々の“技術と記憶”が積み重なっている。

そして、それは今も続いている。



表通りの賑やかなネオンの裏には、裏路地のコンクリ住宅が続く。共同住宅、飲食店、家族経営の民宿。戦後の再建と増改築が重なり、国際通り周辺には「生きた建築博物館」のような景観が残っている。

昔の国際通り
昔の国際通り

通りだけを見て“観光地”と呼ぶのは簡単だが、一歩裏へ入れば、生活のリアルを今も垣間見ることが出来るのだ。


まとめ:国際通りに残る沖縄らしさ

観光客が求める「沖縄らしさ」は、青い海、赤瓦の屋根、
ハイビスカス、アメリカ統治下に育まれたアメリカ文化との融合、と言った所だろうか。

もちろん、それらも沖縄らしさではあると思うが、国際通りを見ていると、沖縄が生きてきた歴史そのものだ、と私は思ってる。

国際通りなんて、と沖縄通な者がよく口にする言葉は良く耳にするが、今の時代でも通り一本外れた場所には、沖縄の強さと沖縄らしさが、しっかりと息づいている、沖縄の良い面も悪い面もたっぷり詰まった、沖縄らしい大好きな場所の一つとして足繁く通い続けてる。

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コメント

  1. こんにちは、これはコメントです。
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