沖縄好きが高じ、下手の横好きで沖縄民謡の教室へ頻繁に顔を出したりしているが、
ある日コンビ唄をやろうと先生からの提案があった。コンビ唄と言うのは彼の地ではディユエットと呼ばれる男女で歌う曲である。
どんな唄があるのか?を調べてるうちに、コンビ歌って沖縄芝居と密接にある、そのルーツが沖縄芝居、歌劇にあるんだと思ったと言う話をお届けしたい。
沖縄芝居について
沖縄芝居とは何か?
沖縄芸能の発信基地である、国立劇場おきなわ のサイトによると、沖縄芝居についてこう書かれている。
沖縄芝居は「歌劇」と「方言せりふ劇」に分類します。歌劇は歌、所作、舞踊、せりふなどで組み立てられた歌舞劇です。初期の頃は短編の作品が多く、本格的な歌劇の登場は明治40年代です。庶民の風俗と人情を描いた作品が多く、悲恋物が人気を呼びました。「泊阿嘉」「奥山の牡丹」「伊江島ハンドー小」は三大悲歌劇と呼ばれ、現在でも人気のある作品です。
方言せりふ劇は、日常生活語(琉球方言)に近いせりふで演じられます。廃藩置県後、沖縄の役者たちが「演劇改革」と称して本土へわたり、本土から持ち込んだ旧派・新派の演劇を翻案し、それを沖縄古来の演劇に加えて創案したのが方言せりふ劇です。その様式は明治20年後半から30年代前半にかけてのことと思われます。題材の多くは史劇で、その延長上に時代劇がつくられました。もっとも古くて本格的な作品は、明治35年に渡嘉敷守良・守礼兄弟によってつくられ、上演された「北山由来記」(のちの「今帰仁由来記」)です。
最も適切だと思われるので引用させて貰ったが、復興真っ只中の混沌とした中で、沖縄の芝居はいち早く民衆の心をつかみ、復興が進むにつれそれは映画になっていったが、地方に行くほど映画の普及はまだまだ後の話で、演芸一座は沖縄各地から離島までを旅して回ったと言う。
流石に唄の島、特に歌劇の人気は凄いものがあって、人気役者の台詞まわしや歌声は、観客にとって大きな刺激になった。舞台で披露される新作の唄は、まず“役者の唄”として強い印象をもつ。節の特徴、声の張り、タイミングのとり方まで含めて、その役者のイメージと結びつく。
上演のあとも長く人々の口に残り、町や村で独自に育っていく。これは偶然ではない。歌劇の中で歌われた唄が、観客の生活に滑り込み、そのまま定着するという、具体的な流れがある。
上演が終わると、観客は耳に残った歌詞や旋律を、寄り合い、酒席、職場などで自然に口ずさみ役者の真似をする。録音媒体が乏しかった時代、覚えた者が他者に伝えることが唯一の手段だった。
ここで唄は舞台から離れ、観客自身の生活に入り込む。歌詞の細部を思い出せずに少し変える者もいれば、節を自分の声に合うように調整する者もいる。この“細かな変わり方”が積み重なって、歌劇の唄は民謡へと姿を変えていった。
歌劇は恋慕、家族の対立、村の騒動といった身近な題材を扱うため、舞台の唄も日常と地続きの感覚で受け止められた。観客は物語そのものよりも、自分の生活に重なる情景を結びつける。たとえば、別れを歌う場面の旋律は、特定の芝居の記憶よりも、個々の別れの実感とともに口ずさまれる。それが歌劇の唄を実用的な民謡へと移し変える。
時がたつにつれ、もともとの作品名や初演の背景が忘れられ、唄だけが単独で残ることも多い。無のある唄者がレコードに吹き込み、それがコンビ歌となって今も歌われているわけだ。
今も歌われているコンビ歌にこの時代の物が多いのはそういうわけだった。
歌劇としての出自を失いながらも、覚えやすい節回しや語り口が残れば、その曲は別の場でも使われるようになる。こうして歌劇発祥の唄が、地域の祝宴や踊りの場で歌われるようになり、やがて誰もが知る唄になる。
有名な所でいうと、沖縄三大歌劇(「泊阿嘉」「奥山の牡丹」「伊江島ハンドー小」)の一つ、泊阿嘉からは 伊佐ヘイヨーが 今も人気のコンビ歌、歌劇「西武門哀歌」からは西武門節がある。
現代、歌劇の上演頻度は減ったが、かつて観客の記憶から広まった唄は、今も歌われている。劇場を離れた唄が新しい場を得るのは、沖縄の歌文化が生活の中で受け渡されてきた歴史を示している。耳に残った旋律が歩き出し、役者も舞台もない場で続いていく。その道筋こそ、歌劇の唄が残ったもっとも具体的な理由である。
もちろん、すべてが歌劇発祥というわけではない。村の行事や仕事歌のリズムの中にも、掛け合いの要素は古くから存在していた。それでも、「二人で言葉を投げ合いながら進める歌」という形式が、歌劇という場で磨かれ、観客の体へ移り、別の場所で再び歌われた。この流れを考えると、コンビ唄は芝居の外側にある民謡ではなく、芝居と生活の境界で生まれ、行き来しながら形を整えた存在なのだと思える。



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